屈辱の松屋なう 〜 俺とだく盛りと松屋

これは松屋Advent Calendar 20日目の記事です。昨日はみんなのアニキ、kazken3の「松屋を支える技術」でした。

私はもともと牛丼と言えば吉野家派であり、松屋は好きではありません。私は二ヶ月前まで京都の四条壬生川という所に住んでいたのですが、その近辺で吉野家へ行こうとすると、西院という所まで行く必要がありました。
西院というのは大宮から阪急電車で一駅なのですが、夜中に一駅ぶん歩くのもいやなものですよね。家の前にはなか卯があったのですが、当時のなか卯は「和風」を謳い牛丼にシイタケを混入するなどという暴挙に出ており、あまつさえその後は牛丼を廃止してエリンギを入れてくる始末。
なか卯がだめ、吉野家は遠いとなると、残された選択肢は松屋しかありません。そして私は行きたくもない松屋四条大宮駅前店で「屈辱の松屋なう」することになるのでした。しかし、真の屈辱はその後にやってくるのです。

だく盛りなどという客に媚びたサービスなど存在しなかった当時、飯が吸い切れぬタレを丼の底に残すことは、職人の恥であった。
挑戦であった。

牛魔王とその眷属たちは、予知野家の誇るシステムに対し、全胃袋をかけて、戦いを挑んでいた。

「腹ぁくくれ。……戦争だ」


立喰師列伝. 押井守. Production I.G, 2006.

「つゆだく」
私がはじめてその名前を聞いたのは、20世紀が終わろうとしていた頃だったと記憶しています。それから10年以上。こんなオーダーも一般的になったようです。
そもそも牛めしとは何でしょうか。ラーメンの主役が麺であるように、牛めしとは白い米を食べる食べ物です。牛肉や玉葱など、所詮はうどんにおける天かすであり、あくまでも主役は適度にタレを吸った米でなければなりません。しかも牛めしは雑炊ではありません。タレの中で泳ぎ、ふやけてお茶漬けの様相を呈した白い物体は、もはや私の期待する牛めしではないのです。
食べ方など個人の自由。だく盛りも大いに結構。これが時流なのかもしれません。お店としてはサービスのつもりなのかもしれません。しかし何も言っていないのに、デフォルトで米が海水浴をしている丼を出すのはいただけません。Linuxサーバーだって、minimalでインストールしてから必要に応じてパッケージを足すのが基本。フルインストールした状態から不要なものを抜いていく人はいませんよね。「注醤、鍋に返らず」という中国の故事にある通り、一度丼に入れすぎてしまったタレを抜くことはできないのです。ああ、昭和の牛丼職人の魂はどこへ行ってしまったのでしょうか。望むらくは、2015年は牛めしのタレが少なくあることを。

さて。そんな理由から松屋では「つゆ抜き」を注文するわけですが、時にはもう一味欲しくなる時があるかもしれません。そこで登場するのがサイドメニュー。中でも一番最初に思いつくのが生卵ではないでしょうか。すき焼きは溶き卵につけて食べるのが定番。タレで煮込まれた牛肉と生卵の相性は保証つきですし、卵かけご飯というのも魅力的かもしれません。しかし。

男の挙動には、無銭飲食に特有の後ろめたさがまったく感じられなかった。
目線が店の者を追うこともなく、むしろ傍若無人とも、尊大とも形容しうる自信が漲っていた。
大盛りも、口直しの御新香も、味噌汁も求めない。

「やつは……玄人だ」

生卵を頼まない、という事実が決め手だった。
(中略)
生卵は確かに牛丼に馴染むし、熱い飯の温度を緩和して素早く嚥下することを可能にするが、生卵をかきまぜることは、牛丼本来の味わい、タレの染み込んだ熱い飯の香りを決定的に損なう。
男が玄人であることに関しては、一点の疑問もない。


立喰師列伝. 押井守. Production I.G, 2006.

溶き卵で米を水没させてしまっては、せっかくつゆ抜きを注文した意味がありません。卵はどんな味とも調和しますが、それは同時に、個々の食材の尖った味わいを損ってしまうことも意味するのです。牛皿とライスではなく、あくまで牛めしをオーダーした以上、その調和のとれた味わいを損なうような行為は、厳に慎むべきと考えます。
そこで半熟卵をオーダーします。適度にとろみのついた半熟卵であれば、不必要に米や牛肉を侵食することもなく、白飯にワンポイントの彩りを加えることができるというものです。肉を半分ほど食した後、丼の中央部の米を穴を開けるように食べてから、そこに卵を投入するのが味の変化を楽しむ意味でもベストです。
並、つゆ抜き、半熟卵。これこそが松屋の、松屋ならではの食べ方と言えるのではないでしょうか。

吉野家にも半熟卵ありますよ?」

ぎゃふん

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